震災から5年を迎え思うこと【その被害を知っているからこそ】

東日本大震災翌日の朝刊

今週の11日(金)で、東日本大震災から5年になる。

東日本大震災翌日の朝刊

東日本大震災の翌朝に届いた福島民報の朝刊

あの日の記憶を振り返ってみる。2011年3月11日は今年と同じく金曜日だった、私は勤務日で3月にしては寒い日だったので皆で少し早めに休憩しようとお茶を飲んでいた時のことだった。

地震発生時のことを振り返る

仲間の一人の携帯(当時ガラケー)が緊急地震速報を受信した。
やや強い揺れだったので一緒にいた4人全員で建物の外へ出た

当時の一般的な防災の知識では地震の時は建物内に留まるべきか外へ非難すべきかは微妙なところだったのではないだろうか、今思えばあの規模の地震であれば建物外へ非難したことは正しかったと思う。

私の職場は、地盤が固いためか揺れによる被害は少なかったものの、揺れている時間の長さに唖然としたのを覚えている揺れは5分くらい続いただろうか、あるいは長く感じただけかもしれないが普通の地震ではなかった。

その後に社内での被害の確認や関係場所への諸連絡をすませ、帰宅できたのは18時半くらいだったと思う。信号はいたる所で停止状態、道路沿いの家はほとんどが明かりがついていない異様な風景。

自宅では物が散らかり窓が開いていた

家につき玄関を入ると、そこに置いていたLEDライトが土間タイルに落下し点灯していた。当然、自分の家も停電して真っ暗たったので、偶然の明かりに少し安心はさせられた。

家の中を見渡してみるとテーブルやちょっとした家具の置き場所が移動していたり本棚が倒れていた。

それから強い地震の時にはカギをかけていた家の窓が開いてしまうことを初めて知った。

家が激しく揺さぶられてロックされていないカギは下にずり落ち、さらに揺れによって窓が開くようだ。このように勝手に開いてしまった窓は数か所かあった。

断水への対応はもっと大げさでよかった

その後、思い出したのが地震といえば断水、ヤカンや鍋、ペットボトルなど思いつくものに水をくんだあとお約束通り断水となったが、その後に風呂にも貯めとくんだったと後悔したのを覚えている。

結局、断水が回復するまで、自宅ではシャワーを浴びることができず。その間に一度職場でシャワーをかりた。

実家との連絡がつくも不安な一夜を送る

実家と連絡が取れたのは夜遅くだったと思う。
余震が続く中、情報収集のためにつけていたラジオが発する情報は悲惨なものだった。

いつ大きな余震が来るのか不安なまま、ほとんど一睡もできないまま夜が明けたと記憶している。

翌朝いつも通り朝刊が届く

そんな翌日の朝に、少し安心させられたのが何時もと同じように朝刊が届いたことだ。

震災新聞

新聞を取っていてこれほど良かったと感じた朝はないが、新聞の中身がこれをほど悲惨なものだったのもこれまでにないと言っていい。

もし、あの日の朝に新聞が届かなかったら(実際届かないところが多かったことでしょう)さらに不安は増していたに違いない。

食料やガソリンが手に入りづらくなる

その後、余震の続く中で家の片づけなどをして過ごしたわけだが、まず食料の調達に不便を来したのは津波の被災地だけではなかった。スーパーの買い出しには行列が出来て、あっという間に商品棚から物が消えていった。

それからガソリン、あまり詳しくは書かないほうが良いと思うが私は今も車のガソリンが半分減ったら満タンにするようにしている。

予備のガソリンは置いてあるバイクから抜くことができる。
私の住んでいるところは原発からは数十キロ離れてはいるが、考えていたことはメルトダウンしたら県外に避難しようということだ。

安全かどうかは判断するのは自分自身だと思っていた。
指示がなくても危険だと思ったら逃げなくてなならない。

当時ガソリンの買い置きはすべき準備の一つだった。
(※それが先のニュースでは炉心溶融(メルトダウン)していました。自社の基準まで行っちゃってましたとは驚きで開いた口が塞がらない)

甚大な被害を知りつつもあらためて感じること

私は沿岸部の方々が津波の災害にあったことを知っている。

繰り返される報道で何度も知らされている。
あの日に多くの命がなくなった。しかし、私たちにできるのはこれからのことだけ、過去をどうにかすることは難しいし、悲しさは疑似体験しかできない。

大津波を実際に目の当たりにした人しか恐怖は語れないし、あの日を思い起こせばつつしまねばならないことは多い。

それでも、私たちがしなければならないことは今を精一杯生きること毎日を後悔せずに過ごすことなのだと思うのです。